海の見える街

意味とか価値とか、そういうのがあると最高に良い

汚濁の瞳

 その者は致死量の優しさを持ち、狂おしいほど美しかった。

 私が死んで、千年が経ってもその者は生きながらえているような気もしたし、つい明日には息絶えてしまうような気もした。

 結局、私はきっとその者について、何も知り得なかったのだ。

 その者は生来生まれ持った卓越した弁舌と、虚偽を謀るに何ら罪悪を感じ得ない精神をもって、誰にも悟られず、誰も信じず、その濁りきった生き方を是としながら、それでいてただただ自分を厭うように、緩やかな退廃を体現していた。

 私はその者の在り方を、とてもではないが肯定することは出来なかった。そしてその者もまた、自らそうした生き方を自分に強いているにも拘らず、どうやらその生き方に苦悶し、懊悩し、疲弊しきっているようだった。

 私にはその者が一体何に怯え、そうした生き方を自らに強いているのか判らなかった。どころか、その者は平時至って正常で、よく笑い、お道化、時折ひどく沈んだ横顔を見せるだけで、その横顔も、すぐに厚い皮のようなものに隠れてしまうから、私も平生はその者が内に何らかの異常性を秘めていることを失念してしまう位であった。ただ、私にかろうじて知覚出来得たのは、その者と我々との間に、とてもちいさく、それでいて厳然と横たわる、一筋の亀裂のような隔絶であった。

「どうして、『そう』なの」

 私は思い切って、その者にそう尋ねたことがある。今にして思えば、おそらく私がその者との関係において、唯一その亀裂に足をかけた瞬間であった。

「驚いた、驚いた。君は、目がよいのだね」

 その者は一度だけ目を見開いて、数度頷いたあと、

「ずっと、ずっと『こう』なのだ。気づいたら『こう』だったのだ。これより他生きる術を知らないのだから、仕方あるまい。どうだい、異常だと思うかね」

 そう言ってちいさく首を傾げた。長い前髪から覗く双眸には、生物としてあるべき光沢はなく、その者の生き方同様に濁っていた。観察されている、そう思った。

「それほどに、偽るのが苦痛であるならば、いっそひとりになってしまえばいいわ。まさか貴方も、自分を騙そうとはしないでしょう」

 私はあえて、死ねとは言わなかった。きっとこの者にそう言えば、躊躇なく首肯し、そしてこの回答にたちまちに失望するであろうという予感があった。

 その者は笑った。その笑いには自虐の色が多分に含まれていたけれど、偽りのない、その者の真の笑みであった。

「面白い事を言う。誰とも関知せず、ひとりで完結できてしまうような生物を、人間とは言わないさ。ぼくは人間でありたい。

 いいかい。君は確かに美しい。花の様だ。けれどもだからって、ぼくのようなみじめな者をあまり虐めてはいけないよ」

 その者は口端をわずかに持ち上げて、去っていってしまった。それ以来、私はその者に会っていない。

 今でも時折その者の事を思い出す。長い髪や、細い指、そしてあの汚濁の瞳を思い出す。何処かで救われているだろうか。それとももう人間であることをやめてしまっているのだろうか。判らない。そもそも人に自分以外の人間の事など判る筈がないのだ。それを最も理解していたのは紛れもないその者であった。果たして私にあんな、狂おしいほど美しい生き方が出来ただろうか。人というものにあれだけ誠実に向き合っていた人間を、私は他に知らない。そのことを言い損ねた事だけが、後悔といえば後悔である。炬燵のコードでつくった輪を前に、私は思う。

 君の優しさは致死量である、と。