海の見える街

意味とか価値とか、そういうのがあると最高に良い

モザイク

例えば此処にいない僕のことを、誰かが覚えていてくれたら、証明は簡単に綻ぶだろう、やさしい間違いを、ことばたちは隠してしまった、君の持つ街の形を、僕はまだ知らないけれど、古い詩集を持って、浴槽に沈んでいる花弁を掬いに行くよ、
スカートが揺れる、ねえ、君は何て言った?

寝息

安寧が耳に宿ったら、これほどの多幸感。
微睡みが貴女を守っていることが、
其処に私が在ることが、
たまらなくいとおしい。
どうか健やかに、そして穏やかに。
この病熱のままで。

無題

自分をここに繋ぎ止めているのはいつだって自分ではない誰かだ。



追記 : 見よ!この世で最も醜悪で下劣なこの脅迫を!嗚呼目も当てられぬ!驚くなかれ、この者もかつては真理の深淵を覗こうと勇んだ若人であったのだ!

拝啓

拝啓

酒や煙草への憧れは、わからないから輝いていた。
香水のにおいを振り撒いていた近所のお兄さん、あなたはとても格好よかった。いつかわかると信じていたその香りの魅力を、私はついぞわかることはなさそうだけれど、あなたのにおいは今でも鼻腔をくすぐります。
私へ、今の私は君の望んでいた人間ではないのでしょうね。君は私を許さないかもしれない。でもね、今私はとてもしあわせです。とてもとても。君には想像もつかないでしょう。だいすきなひとたちと、とてもとても大事なひとに囲まれて、しあわせを離さないように必死な私のことなんて。私はそれがすこしだけうれしい。君の知らないことが今の私にあることが喜ばしい。だってそれは私が前に進んでいる証だから。
許せる日は来るよ。大丈夫。君は君を殺せない。だから安心して、思いきり希望と絶望とを繰り返してください。君の喜びも、焦りも、失望も、すべて祝福される日が来るよ。だからどうか永遠を信じることだけはやめないでください。そうすれば、君はどこへだって行けるし、何にだってなれる。誰かになりたいという憧れを、どうか捨てないで。
愛してるよ。

敬具

三月の化石

「私はあの子になりたい」
三度目の春に彼女はそう言った。
「ぼくはずっと海が見ていたいな」
吐く煙は細く、淡く。油絵の勉強と称して行った植物園には、ネモフィラの花が咲いていた。
「学者なんて最低な生き物よ」
そう言って彼女は煙草を一本ねだった。
「だめ。身体に障るよ」
「あなたの指って、すごく綺麗だわ」
「褒めたってあげない。それにピアノは弾いたことがない」
遠くで水の音がする。彼女の絵を、ぼくは描いたことがない。海辺の堤防に腰掛けた彼女を想像する。
「ねえ。今度、海に行こうか」
「厭よ。潮のにおいはきらい。母を思い出す」
彼女は海を老いた奇跡と呼ぶ。胎動をやめてしまったから、あんなにも美しいのだと。その前は彼女の実家の古い蔵からでてきた埃を被った人形を神様と呼んでいた。彼女の哲学はいつだって難解だった。
指の間で藍色のビー玉を転がすのが彼女の癖だ。陽光が彼女の頬に反射する。綺麗だと思った。
「ねえ、やっぱり、今度海に行こうか」
きっとそれが、正しい選択なのだろうと思う。