海の見える街

意味とか価値とか、そういうのがあると最高に良い

三月の化石

「私はあの子になりたい」
三度目の春に彼女はそう言った。
「ぼくはずっと海が見ていたいな」
吐く煙は細く、淡く。油絵の勉強と称して行った植物園には、ネモフィラの花が咲いていた。
「学者なんて最低な生き物よ」
そう言って彼女は煙草を一本ねだった。
「だめ。身体に障るよ」
「あなたの指って、すごく綺麗だわ」
「褒めたってあげない。それにピアノは弾いたことがない」
遠くで水の音がする。彼女の絵を、ぼくは描いたことがない。海辺の堤防に腰掛けた彼女を想像する。
「ねえ。今度、海に行こうか」
「厭よ。潮のにおいはきらい。母を思い出す」
彼女は海を老いた奇跡と呼ぶ。胎動をやめてしまったから、あんなにも美しいのだと。その前は彼女の実家の古い蔵からでてきた埃を被った人形を神様と呼んでいた。彼女の哲学はいつだって難解だった。
指の間で藍色のビー玉を転がすのが彼女の癖だ。陽光が彼女の頬に反射する。綺麗だと思った。
「ねえ、やっぱり、今度海に行こうか」
きっとそれが、正しい選択なのだろうと思う。

ユリイカ、発声

自分以外の何かを嫌いになったことが一度もない、一度もないから、それがとてもこわい、知らないのってこわい、唯ひとつ嫌いなものになれたなら、君は特別になれるよ、でも君はきっと望まない、望まれた輪郭、求められた形状、そこにぼくはいるの、触れていたい、知っていたい、どれもこれもが愛、博愛主義では愛せないもの、選ぶという暴力、何もないのはもう嫌、汚れている、汚している、ピアノすら弾けない指、すき、だいすき、君だけが新しかった、生まれたての世界をみた、

素敵なひとたちにたくさん好かれて、しあわせな少年は夢を見る、うまれた時から彼のねむりはあさい、大きな時計塔があって、取り囲むように広がる街、電線に洗濯物、ひび割れたコンクリート、廃車に住む男、駄菓子屋の電光看板、さびれた珈琲店、陶器で出来た巨大な招き猫、続く石畳、屋上の天体望遠鏡、剥き出しの配管、蒸気を吐く機械、異文化、他言語、選民思想、銃声、繁華街、路地、煉瓦造りのビル、歩くひとは皆動物の頭骨で顔を隠す、音楽すら街だ、組織される自警団、悪名高い資産家、義賊ぶった若者、唱えられる共和主義、声高に、声高に、怒号の飛び交う大衆食堂、サーヴィスはよくない、連日賑わう見世物小屋、異種族への差別はやまない、ダウンタウンでは賭博が流行り、活気に溢れている、そんな街の夢を見る、

水族館

思想はいつだって宙に浮かんでいる、自由とは自由ではなく、沈黙とは沈黙ではない、名前を呼んで、三度だけ有機的な社会は笛を吹く、合図は英国紳士の足音、鉱物図鑑の157ページに君のパパはいるよ、走って行かなきゃきっと卵になってしまう、歌をうたう酒瓶、舟はそこまできている、汽笛の代わりに夏を鳴らせ、さあ!

日用品

写真だって文字だってみんな絵だって牧師は言った、構造主義者の殺人動機、水面で死んでいる風船、何人目までが私か、それだけを考えている、嫌いって感情を知りたかっただけ、ぜんぶから逃げたいって思ったら肺を汚せばすべて許されるから、煙草と花束はよく似てる、硝子細工のコートを着て街に出掛ける、帰りに牛乳とボタンとカフカを買ってこよう、そしたら私は神様になって、部屋を掃除しはじめる、口ずさむ音楽はもう形式上の音楽でしかない、私は神様なのだから、福音となって戦争が起こる、なんてことと微笑を浮かべて、私はカフカを食べる、

耽美派の手記

見るものぜんぶ燃えてしまえばいいって思うけど、一番燃やしたいのは自分だし、死にたいというよりは死んだほうがいいって思うけど、死んでなんかやらないとも思う。生きることが罰なんだよって戒めたあと、ただそうやって正当化をして、死にたくないだけだって気づく。戦争や災害はあるけれど、この世界は完璧だ。あまりに完璧に見えるから、なにひとつ欠けてもだめな気がして、だから死なないでって思う。誰かに死なないでなんて思ううちは、まだ自分以外の世界に干渉しようだなんて図々しさが残っているうちは、死んだらいけないんだと思う。

「お前は混じりけのない氷のようだね」

そう言われて、罪を暴かれたような気分になった。最低な気分。狂っているふりをしているのか、本当に狂ってしまっているのか、もう自分では判断できない。こんな苦悶や懊悩も、どうせ何千何万のひとたちが持っているのとそう大差なくて、この絶望すらも特別なんかじゃなくて、やっぱりぜんぶ燃えろよって思うんだ。

どうせ死なない。自分はこうやって生きていく人種なんだ。美しくありたい美しくありたい美しくありたい美しくありたい美しく美しく美しく美美美美美美……。狂気に抱かれて今日も眠る。